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【アラベスク】  第19章 朝靄の欠片



第3節 異郷のVega [13]




「これで俺も自由になれる。みんな、幸せになれるのさ」
「幸せ、に」
 そうなればいいのにと、木崎だって思う。すべて上手くいけばどんなにか良いだろうに、と。
「そうさ。そうだよ。それに、俺がいなくなれば懐子(ちかこ)だって」
 そこで栄一郎は口を閉じる。そうしてフッと視線を落とした。
「いや、悪い。こんな話は、すべきじゃないよな」
「栄一郎様、私は」
「悪かった。忘れてくれ」
 言って、今度は栄一郎が庭へ顔を向ける。
「でも、俺は本当に東京へ行くんだ。早苗と一緒に。この気持ち、お前にならわかってもらえると思ってたんだがな」
「わかりますよ」
 痛いほどに。
「わかります。ですから、上手くいけば良いのにとは思うのですが」
「だったら、ずっと思っていてくれ」
 木崎は、もう何も言うまいと口を閉じた。何を言っても、自分では役には立たない。それに、ひょっとしたら、本当にすべてが栄一郎の思うように運ぶのかもしれない。
 窓を叩く風が、冬の訪れを告げていた。
 こんなところに長居は無用だ。明日にでも東京へ発とう。
 夕食後に早苗とそう話し、起床時刻を確認して別れた。
 明日、東京へ発つ。
 考えただけで興奮した。目が冴えて眠れなかった。ようやくウトウトしかけた微睡(まどろ)みから栄一郎を引きずり出したのは、木崎だった。
「栄一郎様」
 ノックと共に掛けられた声はかなり潜められていた。熟睡していたら聞こえなかっただろう。
「どうした? こんな時間に」
「申し訳ありません。ですが、お知らせしなければと思いまして」
「何だ?」
「山脇様が」
「早苗?」
 パッと身を起こす。
「早苗がどうした? 入れ」
 扉が開き、木崎が滑り込む。
「早苗がどうした?」
「山脇様が、屋敷を出られました」
「は?」
 早苗が? 屋敷を出た? この富丘の屋敷を?
「一人でか?」
「はい」
「いつ?」
「今さっきです。二・三分ほど前。五分も経ってはいません。扉の音がしたので確認しましたら、玄関からそっと出て行かれるのを見ました」
「なぜ?」
 そこで別の疑問も沸く。
「お前、ずっと起きていたのか?」
 その言葉に、木崎は表情を硬くした。そうして重苦しそうに口を開く。
「昨夜、遅くに来客がありました。栄一郎様がお部屋へ入られてからしばらくの事です」
「客? 誰だ?」
「ハッキリとはわかりませんが、おそらく」
 そこで一拍置く。
「おそらく、お父上様からの使いの者かと」
「親父から?」
「はい。最初は大旦那様への用事なのかと思ったのですが、あのような遅い時刻に訪ねて来られるのも些か不自然かと思い、様子を見ておりました。そうしたら、どうやら彼らは、大旦那様ではなく、山脇様にご用事だったようで」
「早苗に?」
「はい、山脇様と応接でなにやらお話をしていたようです」
「なぜすぐに俺に知らせなかった」
「山脇様を連れ戻すような素振りを見せるようならお呼びしようと思っておりました。ですが、特に言い争うような声も聞こえませんでしたし、一時間ほどで帰られまして、山脇様もお部屋へ戻られましたので、一先(ひとま)ずは大事でもないのかと。今日には東京へ発つという事でしたから逆に事を荒立てるようなことをしてはお二人の逃避行を感付かれてしまうかもしれませんので、おとなしく帰っていただけるのでしたらその方がよいのではないかと。それに、朝になれば山脇様から直接栄一郎様へお話されるのではないかと思い、私が出しゃばるのはよくないのかとも思いまして」
「もういい」
 言ってベッドから飛び降りる。
「早苗が出てから数分だな」
「そのくらいかと」
「どこへ行った?」
「お荷物をお持ちでした。ただの散歩などではないと思います」
「早苗の奴」
「どこへ行くにもここからなら電車でしか行けません。タクシーを呼んだ形跡はございませんから」
「駅へ行く」
 素早く着替えて部屋を飛び出した。玄関へ向かう途中の廊下で、使用人を伴った祖父と鉢合わせた。
「どこへ行く?」
「ちょっと散歩」
「追うのか?」
 早歩きで玄関へ向かっていた足を止めた。振り返ると、祖父と視線が交差した。
「早苗は、どこへ行った?」
「追ってどうする?」
「どこへ行った?」
「お前は霞流の跡取りだ」
「どこへ行ったんだよぉぉっ!」
 怒声に、使用人が一歩下がる。祖父は毅然と孫を見つめる。
「早苗をどこへやった?」
「自らの意思で、故郷へ帰った」
「故郷? 九州?」
「縁談を取り持ってやった。女の実家から見れば悪くはない話だ。母親は乗り気だ。伯父だという男性も喜んでいる。お嬢さんが共産党員から誘いを受けているからこのままだと道を外すかもしれない、などと話したら、母親は震え上がっていたそうだ」
「そんな。早苗はっ!」
「栄一郎」
 低い声が早朝の廊下に響く。
「あの女は、所詮は労働者だ。お前とは身分が違う」
 パッと身を翻し、玄関から飛び出した。靄が漂っていた。
 真っ白な中を必死に走った。屋根も無い標識だけの停留所でイライラと待った。飛び乗った電車の速度はひどくノロく感じられた。窓の外を眺めていると、靄の中をどこか現実ではない別の世界へと連れて行かれるような錯覚に陥った。一度迷い込んだら二度とは出られない、迷宮への誘い。
 早苗も、そんな処へ? 手の届かない迷宮のどこかへ?
 寒いのに、掌がジットリと汗ばんだ。
 九州へ帰るなら、行き先は名古屋駅か。ならば真留(まこどめ)駅で乗り換える必要がある。
 睨みつけるようにして外を見ていた。乗換のために駅舎の椅子に腰を下ろしていた早苗を見つけて飛び降りた。
「よく気付いたね」
 栄一郎の姿を見ても大して驚きもせず、ゆっくりと立ち上がった。その姿に、栄一郎は息を吸った。
 早朝の駅舎に漂う朝靄の中で、彼女の姿はただ凛としていて、何の迷いもなく真っ直ぐで、美しくて、清らかだった。着ているものがどんなに粗末でも、許婚だと紹介された鼻持ちならない女よりかはずっと美人だと思った。だから栄一郎は、結局は何も言えないまま、抱きしめてしまった。
 朝早くに家を出たという話を木崎から聞いた時、沸いたのは怒りだった。
 なぜ、どうして俺のそばから離れたのだ。なぜ俺と別れる? どうしてだ? 俺はこんなにもお前の事を想っているのに。
 姿を見つけたらどんな言葉で罵ってやろうかとあれこれ考えていた。だが結局は、何も言えなかった。
「離して」
 静かな声に、栄一郎は応じなかった。
「離してください。もうすぐ電車が来ます」
「嫌だ。行かせない」
「私は郷里へ帰ります」
「どうして?」
「どうして?」
 早苗は小さな掌で栄一郎の胸を押した。
「私が傍に居ると、あなたは不幸になってしまう」
「そんな事にはならないっ」
 朝靄を吹き払うように叫ぶ。
「私は帰ります」
「やめろっ!」
早朝で誰もいない駅に響く。
やめろっ! そんな、そんな他人行儀な言葉で俺と向かい合うなんてやめろ。
「お前がいなくなった方が、俺は不幸になる」
「そんな事はない。あなたはこれから工場を継いで、お父様と一緒に事業を拡大していく。でも私と一緒に逃げれば、その人生を台無しにしてしまう」
「親父の傍にいたって、俺は幸せにはなれない。親父は、仕事の事しか考えていない。俺は仕事を継がせるためだけの人形だ」
「そんな事はない。お父様は、社長はあなたの事を思ってくれているはずです。だからこそ私との仲を反対した」
「違う。お前との仲を反対するのは、ただ単に自分の言いなりにならない俺を懲らしめようとしているだけだ。親父は俺を自分の思い通りに操りたいだけなんだ。言いなりにしたいいだけに決まっている」
「そんな事はない。それに私、あなたに付いて東京へ行くだなんて、そんな事はできない。何の考えもないあなたに付いていくなんて事は、私にはできない。だって私には、支えなければならない家族があるのだから」
 家族。
 その言葉がズンッと胸に圧し掛かった。
 彼女を巻き込むという事は、郷里で仕送りを頼りに生活している彼女の家族までをも巻き込む事になる。







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